相谷町 旧跡と伝承 


aishukaisho 相谷は紀和国境の待乳山の南端、吉野川の峡谷に迫る地域に位置し、地形名と云われる。西は落合川を隔てて和歌山県に接する。紀州路への真土越えの旧道があった。
 明応5年(1496)坂合部殿際目之事に「相谷村、上野村堺目者相谷之西之坊主が谷よりくだり上野之前之大谷限り」などとみえ、寛永郷帳(1639)に村高一五〇、六三二石、旗本赤井太郎左衛門領(赤井氏は関ヶ原の戦に軍功あり、犬飼、上野、相谷、畑田等を与えられた)元禄郷帳では、赤井五平治領、この頃(一七〇〇年代初期)に降霊寺新田村(二五、八〇九石)が独立。元禄郷帳に「相谷村之枝郷」、天保郷帳に「古は降霊寺新田村、相谷村枝郷新田村」とある。明治9年(1876)3月3日に相谷村に合併する。坂合部氏滅亡後、一とき幕府直領となったが、その後、赤井氏領となり幕末まで赤井氏一族の領主となる。
 江戸幕府の頃、紀州、大和の国境越えの関所(赤井氏管理)現在も赤井館跡として其の一部を残している。tekkyu
 旧道は、現在ほとんど姿を消しているが処々にその形跡を残し、北側に国道24号線、南側はJR和歌山線が通っている。

@ 神代の渡し(とびごえ)(旧跡)相谷661番地
 大和と紀州の境をなす落合川にある旧跡で平城京(天平)頃より要路(吉野川左岸の道を裏木道、右岸の道を表木道と云われた)として、徳川時代末期まで通行し、万葉人には大和から紀州へ渡る真土山(待乳山)の想出と共に悲喜こもごもの場所であったと思う。現在も昔のまゝの姿を清流と共に残し、見物に来る人も多く、往時をしのばせている。
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A 赤井氏館跡(旧跡
 稲荷大明神社  相谷町656番地
 天平7年(1579)8月19日、丹波攻略に来た明智光秀に落され、黒井城(兵庫県春日町)より逃れた赤井氏の一族が当地方にゆかりあり、ひっそくしたこともあって、慶長5年(1600)徳川家康の軍に加わり関ヶ原の戦の軍功により、同6年、当地に壱千石の領主を当てられ、その他(千葉方面と云われる)と共に1500石の旗本として、この地に屋敷を持ち紀州、大和の国境の砦として徳川末期まで代々統治した史蹟で、第二次大戦前までは、松林の中の処々にの遺跡を残していたが、今は農地となりその面影も少なくなった。
 その屋敷跡に祀られた稲荷大明神は、今も相谷町に依り管理保存され、年1回祭礼(二ノ午の日)も行われている。現在この境内に万葉歌碑並に赤井氏館跡の記念碑が建立せられ、往時をしのばせている。
 尚、赤井氏領主は江戸詰で勤務し、この館は血縁者が住み左配していた。

B 巌 島 神 社(旧跡) 相谷485番地
 通称(弁天さん)と呼ばれ降霊寺の境内にある。
祭神、市杵島姫命。本殿(1.3メートルに1.2メートル)洗造二軒撃梁極彩色の建物で切妻造り、桟瓦葺で保護されている。境内社に疱瘡神社、天神社ともに春日造りの二社がある。
 明応5年(1496)年の坂合部殿証文の中に「相谷村ノ弁才天山同ケヲインノシンクイ也云々」とあり、また「花応院弁才天成頭院之ヲコナイハ宮坊アンニチジ念仏寺此衆カナラズヲコナイ云々」等、ある事から古くより祭られ、境内に梵鐘があり池の間に「この地に弁才天が降りられた処で弁才天の尊さを説き、この弁才天の功徳にこたえるため、その守り寺として降霊寺を建立したのだ」と云うような銘文を印されている。尚、この梵鐘は、天和3年(1683)3月吉日の年号が刻まれいるところから、今から3百有余年前に建立せられたもので、巌島神社は古く明応年間以前より祀られ、当時衰退甚しくなっていたとも考えられる。
 延宝八歳(1680)正月二十七日、当寺中興法印亥翁造之大工犬飼村伝兵衛)とある。坂合部氏時代より重要視して祀られ、旧阪合部村の準村社として管理せられていた。現在は相谷町に於て管理。降霊寺が守護寺としてその保護にあたっている。例祭は、毎年12月第1日曜(亥ノ子)の日としている。
 一説にこの弁才天は、真如親王(高丘親王)が河送院(ケオイン)を建てられたとき、推定、弘仁7年(816年頃)に祀られたものではと云うことである。

C 降 霊 寺(旧跡) 相谷486番地
天女山観智院降霊寺
  新四国八十八ヶ所第五十八番の霊場。真言宗、三宝院末寺(現高野山金剛峯寺)。
本尊、十一面観音菩薩立像(仏高75センチメートル)左右に不動明王(二)
阿弥陀如来定印の坐像、(この仏像は阿弥陀寺の本尊で廃寺後お祀りしている。) 弘法大師座像。
本堂、四柱造り、桟瓦葺の建物(3間に2.5間)
巌島神社の守護寺として建立せられたらしく、(梵鐘池ノ間の銘文による)延宝八歳(1680)正月二十七日「当寺中興法印亥翁造立云々」と云う事から、この頃建立されたと思う。尚、本堂は昭和53年檀家の志納金により大改修を行う。
 十一面観音菩薩尊像、安永7年(1778)4月14日、御再 興開眼供養云々とあり、現在の本尊がこの観音像である。

D 阿弥陀寺跡(旧跡) 相谷610番地
 阿弥陀寺、真言三宝院末寺で新四国八十八ヶ所第五十七番の霊場であった。降霊寺の東北約300メートルの処に位置する相谷の村寺として、宝永7年(1710)4月に過去帳作成しているから、それ以前に建立してあった。但し、明治36年(1903)頃火災にあい焼失。其の後、再建出来ず、幸い仏像(本尊、阿弥陀如来、其の他)は災難をのがれ、降霊寺に移して併祀している。

E 正 法 寺(旧跡) 相谷187番地
 京都醍醐三宝印末寺として往時は相当大きく、現在の地名から見ても広い境内を持っていたと想像出来る(現在は、ほとんどが住宅、水田、道路等となる)。金堂と推定出来る場所に堂宇(四柱造り瓦葺)だけが残っている。創建は不詳である。
 本尊、弥勒菩薩座像(総高87センチメートル、髪際77センチメートル)螺髪が落ち相当いたんでいるが右手与願印、左手は下げて掌を下に向けた降魔印眼は玉眼製作年代は鎌倉時代と云われる(唐招堤寺堂本尊と同型)。堂内には地蔵菩薩立像、不動明王立像、聖徳太子二才像などがある。この大きな寺宇も天明元年(1781)8月整理せられた。現在は、犬飼正和氏に寄り管理せられている。
 当寺の創建は不詳であるが、本尊弥勒菩薩座像は鎌倉時代作と云われており(五條市史より)、この拡大な寺跡から見て、坂合部氏が高野僧徒に攻略され、高野領になったのが天正2年(1574)それから豊臣領になるまで11年間、高野勢力布陣のため建立したものとも推定出来る。昔は、高野直轄であったとも云われるがその後、所管者が転々と変わり、寛政9年11月(1797)に水田に利用するための願い書を領主に出しているということから、今から約280年程前、正徳5年5月(1715)頃、(時の住職権大僧都海範)整理が始まり、天明元年8月(1781)住職音清の時に相谷村、新田村役所宛に譲り渡しの文書を提出している事から此の頃、整理が終り宅地、並に畑として利用していたものであろう。

F 花畑の塚(旧跡) 相谷202番地
 正法寺南20メートル程の処に縦6.5メートル、横4.3メートル、高さ0.8メートル程の塚がある。伝説で昔、「正月元旦の朝に金の鳥が鳴く」と云われた。正法寺の整理された時に関係物を埋立てた塚でないかと思われる。

G 浄 土 寺(旧跡) 相谷26番地
 本尊、阿弥陀如来立像(仏高さ95センチメートル)。寄木造り、藤原風を具えるているが、破損が甚しい。境内に大きな「カヤの木」があり、目通り5.2メートルと云う古木である。本堂は方二間四柱造り桟瓦葺屋根には鯱があげてある。
 往時は小池栄氏方の菩提寺であったが、現在は犬飼正和氏の管理寺である。

H 河送院跡(ケオイン)(伝承) 相谷610番地
 花応院(ケオイン)とも書く。弘仁元年(810)薬子の乱により、皇太子(平城天皇の皇子)高丘親王廃され東大寺(奈良)に入り出家、真如親王と云われ、空海をしたいて高野山に行く。その間此の地に仮庵を建られたと云う屋敷跡。(小字浄念山庵屋敷)(備)空海は高野山に金剛峯寺を建つ(弘仁七年(816))後に、親王は高野山に入山(現親王院)後に入唐。印度方面に渡航途中、羅越国(現在のマレー半島)付近にし客死せられる。

I 国鉄和歌山線旧トンネル(旧跡) 相谷611番地
tonnerufukin 明治31年紀和鉄道として唯一のトンネルが開通しその後、国有鉄道のトンネルとして二度の拡張工事が行われたが、地盤沈下等のため昭和26年トンネルが廃止となり、現在の外廻り線としJR和歌山線が運行せられ「トンネル」だけが過ぎし日の姿をとゞめている。

J 待乳越えの道(旧跡)
 飛鳥、平城時代、万葉集に名高い景観美のある道。
 待乳の道(待乳峠)は万葉時代、今の直接峠を越える道ではなく、山の八合目あたりで南に迂回して眼下に吉野川の流れを見下ろし、遠くは宇智野の平野または吉野、高野の連山を眺望出来る美しい風景は国の境に通ずる道ともあって、道行く人が旅情を随分慰めたらしくて、万葉集にも少なからぬ歌をとどめている。
 所々に旧道の跡が残っているものの、其の全線が明確でない。国境を越えるのは神代の渡し(通称トビコエ)を通って真土小平地区に出たものと思う。
 (備)万葉集にある待乳山に関する歌でも代表する二首
     麻裳よし紀人ともしも亦打山
       行き来と見らむ紀人羨しも
        (大宝元年(701)持統天皇行幸時の歌)
     亦打山夕越え行きて廬前(イホサキ)の
       角太河原にひとりかも宿む
      注、「イホサキ」とは、今のJR隅田駅付近とも云われている。
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K 相谷渡舟場跡 254番地
 相谷−大津間に御蔵の渡しと同様な要領で阪合部村営として吉野川を渡る交通の一助をなしていたが、昭和31年、吊橋架橋に伴い、廃止せられ、現在は舟渡し場までの通路がその面影をとどめている。昭和47年12月(1972)吊橋は鉄橋に架替られ現在に至る。

L 弁 天 岩  吉野川河川敷
 吉野川河川敷にあり、現在は川底が下り、往時の優美な面影は失われているが、川の右岸近くに付近の岩とは異なった白い岩が存在する。昔は、川原の中にこの岩だけが他の岩とは異なった特異な姿を現し、自然信仰の対称となっていたらしく、降霊寺境内にある梵鐘(天和3年「1683」作)の銘文一部に邑之灘頭有琵琶巖将是機感之一瑞乎天女也(解、村の南東には琵琶岩がありますが、これはまさに弁才天がこの地に降ったことを示す一つのしるしであります。)と記されている。
 また、銅鐸研究家によると、銅鐸発見地の近くには信仰対象の岩があるとの事も云われている処から、火打で発見(明治25.6年)された火打銅鐸との関連もあるのではないかと思われ、この弁天岩は相当古くより、信仰の対称であったらしい。

M 昭和稲荷大明神社(旧跡) 浄ヶ谷44番地
 祭神、倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
    猿田彦命(さるだひこのみこと)
    大宮女命(おおみやめのみこと)
 昭和の初期、稲荷信仰に熱心な方が居られ、この地に、稲荷大明神を祀り、国家安泰、家内安全、無病息災、五殻豊穣を願ってはの発心あり、地区住民も之に賛同し、稲荷社を建立して祀り、毎年二ノ午の日に例祭を行っている。

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