上野(こうづけ)町 旧跡と伝承          

koshukaisho 平安末期以来、坂合部郷内の一村として、吉野川の北岸、紀州街道に面した位置で、昔より待乳峠を基点として発展して来た。
 明応5年(1496)の坂合部殿証文の「坂合部郷際目之事」に「相谷村上野村ノ堺目ハ相谷村西坊主カ谷ヨリ云々」とあり、「上野村、犬飼村ノ堺目ハ桧谷ノ谷口ヨリ犬飼島八幡畑ケノ西ノ口マデ云々」とあり、領主坂合部氏が滅亡「天正2年(1574)」した数年後、徳川氏の天下をつかさどるに及び郷中を分割、幕府の直領と給人の采地となる。慶長郷帳には旗本赤井時直領と旗本青山石見領の相給付となり、慶長20年(1615)青山石見が大坂夏の陣に際し、大坂方に内通したことが露見して断家、所領は幕府に編入、inukaitakuその後、大和国郷帳及元禄郷帳では村高二百五十二石四斗一升二合で赤井五平治領となり、内十四石八斗六升は幕府領に編入、幕末まで赤井氏領(一部幕府直領)として推移す。
  近代廃藩置県で奈良県(其の間堺県、大坂府、また再び奈良県)そして奈良県宇智郡阪合部村大字上野となる。五條市制施行(昭和32年(1957))と共に五條市上野町で現在に至る。



@ 八 陽 山(観音寺)(旧跡)
 新四国八十八ヶ所第五十九番の霊場。ko-kannonji
本尊、千手観音(仏高、髪際まで90センチメートル)寄木造り、脇仏、不動明王立像、弘法大師座像(寄木造り玉眼)小堂に阿弥陀三尊を安置す。尚、境内に地蔵尊を安置す。
 昭和年代再建に際し、旧建物の峯木より古木箱を発見、その内部に古文書と板に書かれた創建時の由来書があり、それに依れば正徳元年(1712)本尊薬師如来とも焼失。焼失前の由来は不明なれども、直ちに2間4面の本堂と桁行4間半、梁行3間の寺と千手観音を本尊として再建。
 安永元年(1772)破損甚だしく改築発願、桁行6間半、梁行4間の寺を天明2年(1782)に竣工す。昭和年代に至り老腐甚だしく、昭和24年(1949)高野山の援助と檀家一同の合力に依り再建し現在に至る。
 本堂宝形造り木造銅板葺である。
 本堂内の壁画は旧建物のまゝ保存す。

A 待乳山峠と万葉の歌及び弘法大師とのかかわりについて
 待乳山の地名の由来 kozuke-matutiyama
 金剛山脈の南麓、吉野川に終わる丘陵で大和の国と紀ノ国の境に流れる落合川に及ぶ地帯を、昔より呼名は真土山、信土山、亦土山、又土山、待乳山等と書き残されているが現在の上野町と相谷町に亘る峠付近を呼称したものと思う。特に交通不便な古代は、大和と紀州は異国の国境であり、この峠頂上には山砦跡があり、最近まで外堀りの跡が残存す。また、北側の地名に逆茂木とあり、この地の人馬通行を阻止したものと思う。峠付近に三軒の旅館あり。この峠を越す旅人や、商人、または、役人たちの往復国越えの旅路で、この峠は感慨深いものがあり、万葉の歌に数多く詠まれたものと思う。

B 弘法大師の伝説(待乳膏薬)
 弘法大師が高野山に入山する途次、この峠にまつわる口碑に基づく待乳山峠の因縁が深く、大師の高野山に道案内した狩犬のこと。乳が出なくて困った母親に膏薬の作り方を教えて救ったこと。(待っておれ、すぐ乳が出るから……)待乳峠の呼名の始と云う。この膏薬の伝法は、当時峠の上にあった旅館(花屋、中屋と玉屋)の秘伝薬として最近まで花屋の山形家が製造販売していた。

C 弘法大師伝説地(水枯れのない井戸)odou
 弘法大師の杖で掘った頂上近くの井戸、不思議にこの様な高い所でありながら一年中水枯れ事がないと云われる。また、落合川の中央に飛び越えの石があり、この石の上部に大師の足跡と称する足形が現在も残っている。 (通称「神代の渡し」または「とびこえ」と云われている場所。)
 これらの遺跡をたどれば伊勢街道の昔がしのばれ、万葉の旅人も紀州の殿様の大名行列もこの秘境を通ったものと思われる。

 万葉集と古代待乳山に関し詠まれた歌を記して見る。
  (この15首の外に五條市史P794に、16首記載あり)
  ○こぬ人を真打の山のほととぎす おなじ心に年こそなかれ
                       (読む人知らず)
  ○麻裳よし紀人ともしも亦打山 行き来と見らむ紀人羨しも
                           (淡海)
  ○亦打山夕越え行きて盧前の角太河原にひとりかも寝む
                           (弁基)
  ○大君の命かしこみ天さがる 夷辺にまかる古衣又打の山に
   還り来ぬかも           
  ○かくばかりまつちの山のほととぎす 心しらでやよそに
   鳴くらん             (天暦村上天皇のご歌)
  ○白妙ににほう信土の山川に わが馬なづむ家恋ふらしも
  ○誰にかも宿りをとはむ待乳山 夕越行けば逢う人も無 
                         (藤原定家)
  ○誰をかも待乳山の女郎花 秋と契れる人ぞあるらん
  ○まつち山ゆふ越えくれてはし本は なほほど遠く雨のふらくに
                         (本居宜長)
  ○いつしかと待乳の山の桜花 まちもよそに聞くが悲しさ
                            (伊勢)
  ○麻裳よし紀へ行く君が真土山 越ゆらむ今日ぞ雨な降りそね
  ○いでゆが駒早く行きこそ 亦打山待つらむ妹を行きて早見む
  ○天飛ぶや軽の路や玉だすき 畝傍を見つつ 
   麻裳よし紀路に入りたち 真土山越ゆらむ君は
  ○夕されば君をまつちの山鳥の なくなくぬるをたちもきかなむ
                          (古今六帖)
  ○頼めこし人を待乳の山風に 小夜ふけしかば月も入りにき
                          (小野小町)


D 弘法大師の高野山入山途次に伴う伝説

  イ、待乳山膏のこと

   大師が、乳の出なくて困っている母親に膏薬の製法を
   伝授した。
    製 法  松のヤニを取り、種油を混じて煮つめて
         膏薬となし竹の皮に包む。
    使用法  この膏薬を火鉢で焼いて膏薬をつけて、
         傷口に流しこむ。

  ロ、狩場明神のこと
    弘法大師の高野山に道案内した犬を祀る。
    これに関する古い巻き物は観音寺に保存している。kaidan



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