大深町 旧跡と伝承     

oobuka-shokaisho 田殿町南方傾斜地の所在、慶雲三年(706)七月二十四日条「続日本記」に狹嶺山とあり「大和志」には狹嶺山は峯大深とし、古くより開けた村で「紀伊続風土記」に「湲中大和の地近年多く桃を植えて桃源の如し(中畧)古は田殿村と同様にして本国の地にして谷奥深と一村なり、川津明神を氏神とす本宮峯奥深村にあり」とあるが、明応5年(1496)の「坂合部殿際目之事に火打村、大深村の堺目ハ火打村之南之久保谷より里アセモが池之堤マデ堺目ナリ」とみえ、田殿村より早く坂合部郷に属した文禄2年(1593)の検地帳に六拾四石六斗五升内大豆十一石一斗二升大深村とある。寛永郷帳では「峯大深村」として現れ、村高九八、三一二石、天保郷帳には「古八峯大深村、大深村」とある。obukabasutei
 坂合部氏滅亡の後、豊臣秀長直領後、旗本根来氏(盛重系)領となり、幕末まで根来氏領となる。
 和歌山県富貴へ通ずる道路は、現在の県道開通するまで火打から峯づたいに本町上部(茶屋垣内)を通って経済文化の要路となり、奥地への交流を果していた。現在は県道(五條−坂本線)が物資流通の幹線となり、林業、果樹生産地として、町発展に進みつゝある。


@ 香和津神社(通称 香和津さん)(旧跡)
 祭神、瀬織津比洋命(祓の神)
「神殿」素木の春日造り板屋根杉皮葺の覆屋をもって保護してあり、4メートル四方。sinden
 昭和60年、神殿は其のまゝに覆屋を全面改築銅板葺となる。覆屋の中に春日造り板葺の本殿がある。本殿浜床には木製狛犬の小像を祀している。本殿内御神体奉安の箱に「和州大和宇智郡大深村香和津大明神之御宝剱」とあり、宝剣は長さ53センチメートルの環頭大刀で「貞享三年戍辰(一六八六)正月吉祥日」その他の銘がある。二枚の棟札には「謹請奉正遷宮香和津大明神、御宝宮大明神、神主黒駒村馬場日向守源春吉、天保十五歳辰(一八四四)十一月吉日、願主大深村中安全祈攸」「明治32年9月1日」の本社屋根替の時のものである。
 昔より西性寺、小学校と並び高い石段の上に祀られ、町民全員の信仰の中心をなしている。即ち、例年12月1日祭典が行われ、町内各垣内明神講により、大御供餅まき、又、8月盆期に於ける献灯会、盆踊り当が催される。境内に稲荷社、皇大神宮、春日神社の三社が祀られている。

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A 東光山西性寺(旧跡)
 本堂宝形造4メートル四方。四方に庇付桟瓦葺、本尊、勢至菩薩座像(仏高58.5センチメートル)寄木造内刳の像で前後に矧いている。面長でふくよかにして豊かな頬、実に優しい相貎で腰部しまってやわらかな肉付など、藤原風を感ぜしめると云われる。後補があるため部分的に新しく見える。
承応2年(1653)の銘はあるが、補修の際のもので像の製作は非常に古く幾度か補修を加えたものである。
  舟形光背に墨書がある。

    摩訶勢至菩薩
    峯大深村精舎本尊也此尊容者
    昔恵心僧都令造立給云云今既破損
    成五体身分余歎之蒙諸旦那
    助成奉令再興之以此善根功力
    慈父悲母並信心施主六道合識同
    入阿字日宮乃至法界平等利益
    願主大法師空範敬白
     承応二年己癸年十一月吉祥日
       注、 承応二年は1653年で江戸時代の初め
       注、 恵心僧都 大和当麻の生まれ、名を源心と云う。
          平安時代に活躍した僧、九八五年「往生要集」を著す。
          1017年没。

 本堂内右脇壇の厨子に弘法大師座像(像高16.5センチメートル)弥陀三尊立像(像高中尊35センチメートル、両脇とも19.5センチメートル)。左脇壇に像高37センチメートルの不動明王像。説法印を結ぶ阿弥陀如来立像(像高36センチメートル)毘沙門天の小像、十一面観音像(像高五一センチメートル)を祀る。

大般若経六百巻
 昭和20年代小学校運動場拡張の際、取壌された「般若倉」から遷座された大般若経の方五七八巻の裏書に「貞享二年(1685)正月慈海宝順校合本萬延元庚申歳(一八六〇)仲夏求之現住貞純代」施主鍵矢勝右衛門外十二名の名がある。

 十六善神像には「梵大般若十六善神安政三丙辰年(1856)九月吉祥日為家内安全施主当村小口伝之助、角屋伴蔵」とある。

 この外、涅般像、嘉永三年(一八五〇)庚戍十一月、八祖大師像、安政丁巳天(一八五七)光明曼茶羅、元禄年中(1688〜1704)、弘法大師御尊、安政丁巳仲秋表具、十三仏尊像)正徳年中(1711〜1715)三尊阿弥陀如来(同前)などがあり、箱書に正徳四年(1714)六月との墨書がある。さらに大般若会や念仏奉唱後、檀中各戸へ配布する為の「梵奉転読大般若六百巻息災攸」や「梵奉唱念仏百万遍二世安楽所」の版木と、例年正月初寄の際、役員によって牛玉の札押をする「牛玉東光寺宝印」の版木も所蔵されている。

B 天 王 社(旧跡)
 迫出垣内にあり昼、尚暗い古木に覆われている。
祭神、牛頭天王(キョウゴウズテンノウ)建立、年代不詳。信者達は、今尚、天王社の御紋が胡瓜の切口に似ている事から恐れ多いとして栽培したり、食べたりしない習慣がある。
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C 山の神社(旧跡)
 茶屋垣内の上方に位置する一ヶ所、中畑垣内に一ヶ所、例年12月7日に講より祭り御供餅撒きが行われる。

D 庚 申 塚
 上出垣内、長迫垣内、中畑垣内の三ヶ所に現存する。

E 稲 荷 社(旧跡)
 小田氏の宅地の上にあり、その規模も香加津神社と差程変わらぬ大きな社で小田家の祀神である。明治の中期頃迄は、京、大阪、あたりからも参拝客あり、春や秋の参拝客の多い時は出店もあって、にぎわったそうである。例年初午に御供餅撒きが行われている。
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F 片身地蔵尊(旧跡)(伝説)
 昔の街道に沿った茶屋垣内にあり、1メートル50センチメートル四方の瓦葺の堂に安置されている。
 子安地蔵として昔から地区の人々に信仰され、毎年11月24日祭日には大深の人々の寄進により大御供餅撒きが行なわれる。この地蔵尊右上半身の立像である。
 伝説に曰く此の地蔵さん、昔、春の宵、そゞろ歩きをして居た処、向うから武士が来たのでサムライの姿に化けた処、武士も驚き、いきなり左肩口から切り落とされ右半身の像になったと云う。半身になつた我が身を嘆いて「惜しい片方」と云つた事から地名を「オシカタオ」と云われ今も残っている。其の時、切られて飛んだ片方の像は、今も橋本市の御幸辻方面に祀られていると云う。其の傍の四つ辻を地蔵横手、上の山を地蔵ヶ岳と云われている。

G 大閣の弓掛松と献茶屋敷(伝承)
 片身地蔵堂の前横、現在物置小屋のある辺に下の方から枝のある松の巨木が明治の中期まであったそうである。此の松の木天正年間、豊臣秀吉の軍勢が休息の際、弓を掛けたので大閣の弓掛松と村人達は呼んでいたと云う。尚、此の時、軍全体の休息の場所として狭いため、北々西の広いなだらかな場所があったので此処で茶の湯の接待をした。
 又、この場所は遠く吉野、五條、北宇智、隅田、橋本方面を一望出来る眺望の良い処から、役人達が集まって豊臣検地が行われたとも謂われている。「検地屋敷」「献茶屋敷」の二説あり。

H 三味山と二葉桜
  三味ヶ嶺・三味線山・狹嶺岳・地蔵ケ岳(伝説)
 古書「日本記」には、三味山の狐火退治の記事として残されている。現在は開墾されて果樹園となっているが、大正初年以前は地蔵堂から続く小松の生えた草生の山で、山頂は広く平らで上って行く両側が山一面に小さい10センチメートル内外から大きな木に至るまで、八重の彼岸桜が花を沢山つけて見事な眺めであったそうであり、明治以前の村人達は大和、紀州の遠望出来る此の場所に三味線を持ちより、酒宴を開くのを唯一の楽しみとしていたと云われている。

I 坊城峯の一夜城跡(伝承)
 坊城の城跡とは、天正13年からの根来寺衆徒及び高野山攻の際、高野山派の城や砦、40余個所の攻略に4ヶ年を要した事は、既に豊臣秀吉一代の全国平定中最大の期間であった事は国史畧にも見える通りである。
 何処からでも見える坊城山頂を平らにして一夜の内に城に見える様に戸、障子、畳、筵等で造った高野僧兵の一夜城跡を防城の城跡と謂伝えている。
 一説では、永禄10年(1567)高野山僧徒が宇智郡侵入の際、根拠地として防城峯(770メートル)に高築城を構築したが天正10年(1582)以後廃虚となっている。いずれにしても、高野山僧徒の構築したものである。

J 中将姫の米洗い池
 藤原京時代の権力者、藤原豊成の娘でありながら、継母にうとまれ雲雀山から刺客の目をのがれて当地方に隠れ棲んだ事は良く知られているが、恋野村(旧)の布織松と共に坊城二板田の米洗い池もその辺に假の住居があった事を物語っている。乳母夫婦にかくまわれ(松井嘉藤太夫婦のこと)棲んでいる内に此のあたり富貴と大日川、賀名生方面の近道であるため、通る人達が米洗いのためか池の水が白いとか、白い水が流れて居るというわさになりはじめ、人通がふえたので不安になったのか、何処かへ行ってしまったと云う伝説地

K 不動の渕(伝説)
 大深、谷奥深の境を流れる川を浦川と呼んでいた。その上流、奇岩を周囲にする大きな深い渕があり、その渕を「不動渕」と呼んでいる。その昔、此の渕が干上る程の大旱抜があり、毎日毎日村人達が雨請いをしている時「役の行者」が来合せられ、此の渕の底の巨岩に不動明王の像を塑られ、雨請いの祈願をされた処たちまち大降雨を得たので、其の後旱抜の時は此の渕の水かすりをして祈願したと云われている。

L 弘法大師(伝説地)
 @「祈り水」上出垣内の上方山頂近くに年中、清水の絶えない井戸がある。昔、弘法大師行脚中に村人達が休息をしている此の場所を通りかかり一休みしたところ、此処に水があればと村人達が話しているのを聞いて「では、私が水を掘って進でよう」と杖の先で掘った処、水が湧き出した所といわれ、それ以来、此の水は絶えた事がないと言伝えている。「シツチョモ山祈り水」。
 A「蛭伏せの事」弘法大師が昔、当地行脚中、大深で夕暮となり、とある家で一泊された処、丁度、田仕事の季節で村人達は蛭のため田仕事に難儀している話が出て、「それでは、私が蛭を伏せて進ぜよう」と、早速祈祷され、火打の石橋から奥清水谷の観音堂迄と富貴村との境、五明谷までの蛭を伏せられ、それ以来、其の範囲内の田の蛭は素足で田へ入っても吸付かない。又、他所の蛭の吸付く田から稲苗を貰って来ても付着して居る蛭が、大深の田に入ると吸付かないと云われる。

M 源九郎狐の踊り(伝説地)
 茶屋垣内から富貴に向って旧街道の山中に「イタンズル」と云う場所あり、昔一軒家があった云う屋敷跡の広場。
 その昔、此の広場で毎夜にぎやかな踊りが催され、近隣で話題となり多くの人達が見物に登ったと云う。谷奥深の本屋(モトヤ)の又太郎と云う老人伝え聞いて一度見たいと上出まで来たが、急な坂道の傍の墓地で板塔婆を拾い、杖にしてやっと辿り着き、踊りの輪に近付いた処、怱ちに、にぎやかな踊りが消えうせたと云う。板塔婆の梵字を恐れた狐が逃げ去ったのであろうと云う。

N 天誅組の変と大深(伝説)
 文久3年8月17日夕方から始まった尊王派天誅組による五條代官所襲撃。代官及役人の殺害、焼打、其の後1ヶ月余に及ぶ幕府方との攻防は、人里離れた地にある大深の村も恐怖と混乱に巻き込み、浪士の各戸への宿泊、移動に伴う食糧、武器等の荷駄の人足に多数の人が狩り出され、又、天誅組の富貴、大塔方面へ逃げたあと、進駐した幕府方、藤堂藩、郡山藩、紀州家による人足の徴発、毎夜のかがり火たき等、10月27日迄に及ぶ当時の大深村区有文書「天誅一件に付諸入用書上帳控」によって知る事が出来る。
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O 大深小学校と校地(旧跡)
 現在の小学校舎は本来西性寺の寺域で、本堂と庫裡が建立されていたが、小学校施設充実のため庫裡を取除いて校舎を建設、その後、校舎の続きにあった本堂も現在地に移転したものである。
 明治政府の統一的教育政策により、明治5年8月3日の学制頌布(文部省通達第十三号)が布告された2年後、明治7年11月、西性寺の庫裡を教場に当てて「駸々舎」の校名のもとに児童教育が開始された。



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