阪合部新田町(大平町) 旧跡と伝承  


大平公会堂 阪合部新田内の一部で新田は地名の如く、全国的に江戸時代の前、中期に開墾が盛んとなり、1650〜1700年頃が最盛期であったといわれる新田検地をし石高を定めた。

 阪合部新田も元禄15年(1702)領主赤井五平治村高二五石八〇九となっており、阪合部新田の発足もこの頃であろう。

 明治22年(1889)地方自治体として阪合部村が発足、その林野地の大部分を村直営地として管理する様になった。その内、果樹植栽適地として、国の施策と相待って自立農家育成のため大平地域の開拓を始めた。(昭和初期)現在の阪合部新田町(通称大平)の誕生である。

 当時の大型開拓としては、県下でも最初の開拓だったと云われる。最初19戸入植したのは昭和3年(1928)で大深、樫辻から移住した住民で始まった。昭和20年(1945)都会からの引き揚げ入植者として3戸が当地区に入植し当時の大平自治会に加わった。

 経済的には不自由しつゝも、交通網の整備、果樹等の栽培技術の導入、住民不屈の精神と強固な団結を以て、実践に取組み、住みよい新部落建設のために邁進している。平成3年現在17戸となっている。


@ 大平公会堂(旧跡)

 阪合部新田町のほゞ中心地に大平公会堂がある。開拓入植者の農業経営設計、研修をはかると共に、相互親睦の場として設けられた。現在は、大平公会堂として、自治会活動の拠点となって居り、昭和63年改築せられ現在に至る。
 集会所の前に開拓40周年を記念して開拓記念碑が建てられている。

開拓記念碑表
 開 拓 記 念 碑

   (表 側)
  事業施行者     村長 川島辨一郎
    同          前川藤一郎
    同          福岡熊太郎

  事業設計者奈良県技師    山口 甚作

  事業施行担当主任      更谷  新






記念碑裏
   (裏 側)
  當大平部落の起元は、時の阪合部
  村長川島辨一郎氏、村将来の繁栄
  を計り、村有山林開拓を村会に諮
  り、昭和三年村営事業として、移
  住開墾助成事業の申請、奈良県知
  事百済文輔氏より許可。昭和九年
  公会堂、上水道移住家屋完備全員
  移住、現在に至る。
      昭和四十年十月建立







A 大平遥拝所跡(旧跡)
遥拝所跡
 開拓当時から部落の頂上に近い処に広場を造成し、皇居遥拝の場とした。第2次世界大戦後、この広場に郷社御霊神社を分祀し、小社を造り、町内住民の心のよりどころとし、また児童公園として活用している。
郷社













 大 平 町 開 拓 地 の 歴 史


柿園入植の開始

 最初は19戸が入植して始めた。それは昭和3年(1928)のことである。当時の村長(川嶋)は13ヶ大字にもう1ヶ大字を増やそうという計画で、1戸当り1町歩の当時としては思いきった計画で自立農家を目指した。希望者を樫辻、大深以外にも募ったが結局、樫辻、大深からの新宅した者や、そっくり家ぐるみで移り住んだ者達で始まったのである。

住宅の建設
 県からの補助金を得て、1戸当り1000円の家を建てた。1戸に対して大工賃は100円(大工の費用は一日あたり約1円)だったという。大平の開拓地は県下で最初の開拓だとされている
電気工事は村(村長前川)の計らいで昭和3年ごろには、もう完成していた。

柿の植栽
 村農会技手(鍵谷巌)の指導により、柿の植栽を始めた。しかし当時は、食物を作らなければならなかったので、1町歩全部果樹にした者は殆どなかった。当時は芋や、きび、こんにゃく球、を作ったが殆ど収穫はなかったし、もちろん肥料も買う金がなかったのである。

炭焼き等の実施
 朝早く炭焼き作業にでかけた。白焼きだったので遅れると灰になってしまうのである。「かたげ」と云う作業も村の長老に聞いて、若い者達もみんな一生懸命であった。当時2・3の家を除いて、他は兼業農家で炭焼きをしたり、出稼ぎでなければ現金収入がなかった。炭焼きで得たお金で正月を迎えるというのが普通で、一年中、一生懸命働いたが、暮らしはいっこう楽にならない。入植はしたが、畑からの収入はあてにならない。昭和8〜9年が最低の生活をしていた。昭和17〜18年頃から、ぼちぼち柿も出荷出来るようになった。
林道
主幹道路
 部落から出る幹道は大谷川沿いに火打へ出る道、大深から樫辻を通って御山へ(馬道と云われ野原から富貴〜野川と通じた)但し、いずれも道路巾員せまく、リヤカー、馬力で物資の搬送をし、乗り物で一番早いのは、自転車であった。通う馬の糞を拾って肥料にもした。この状態は、終戦後まで続いたが昭和25年頃から4メートル巾に拡幅工事が始められ、ようやく現在の状態になった。

農産物の本格的出荷開始
 柿や「みょうが」も昭和24・5年頃から大阪に出荷し始めたが、当時「みょうが」の作る人が少なく、ようやく昭和40年以降になってまとめて出荷出来るようになった、西瓜や大根、じゃがいも等も大阪へ出荷したのである。この頃になって大平の名が大阪の市場にも知られる事となる。作物も立派なものが穫れるようになり、活気に満ちた時代となるのである。

有線放送
 農協の有線放送工事は、昭和34年開始され、農作業メモに耳を傾け、新技術を取入れ、有線で結ばれた各戸はたがいに話し合い、情報の交換が行われ、これで都会に一歩近づいたと喜んだものである。

有線放送の廃止 地域集団電話
 昭和38年、大雪害のあと有線放送は復旧の見込みがたたず、その後に共同電話を設置され、其の後地域集団電話となり、昭和54年に電話の一般化が完成した。

記念碑の建立
 斯くの如く苦難の道をたどって来たが、後継者達も立派な柿栽培者として、また地域のリーダーとして活躍する様になり、確固たる阪合部新田町も其の基盤が出来て来た。昭和40年10月部落の中心、集会所の前に開拓40周年記念として記念碑が建てられた。

環境整備の充実
 昭和55年から56年にかけて、僻地対策事業の一環として電話の一般化、道路舗装工事、簡易上水道、防火用貯水槽等ほとんど整い、昭和61年春には、地区内道路の完全舗装工事が実現したのである。
 平成3年には、17戸の内4軒(兼業農家、其の他)を除いて、専業農家として立派に経営が確立し、また、昭和62年より国営パイロット事業にも6人の若者たちが参加する等、意気盛んなところを見せている。

              パイロット農場の柿

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