あゝ 上野駅




 井沢八郎さんの代表作「あゝ 上野駅」の歌が 世に出たのが昭和39年(1964年)。以来東北出身者を中心に多くの人に愛され続け、心の励みとなった人生の応援歌である。昭和30年代40年代に青春を過ごした人々の心にうったえる名曲だと思います。
 当時の上野駅は東北から上京するときの玄関であり、「集団就職」や「出稼ぎ」の象徴の駅でもあったターミナル駅だ。

 この歌を聞くと、何となく目頭が熱くなります。幼少期を第二次世界大戦中に過ごしたいわゆる「焼け跡世代」、この世代の人々は中卒・高卒で社会に出た者が多く大学進学者はまだまだ少なかった。東海道新幹線の開通と東京オリンピックの開催など、昭和30年代後半は日本の高度成長期の出発点であった。当時の日本経済の基礎を支え、労働力の源泉となったのが田舎から集団就職で都会に迎えられ「金の卵」ともてはやされた若者たちである。我が国の今日の繁栄の元となった高度成長期に故郷を離れ孤独で辛い毎日の中で働き続けた集団就職者に対しては素直に敬意を表したい。後世の人々に、こういう時代もあったのだと、いつまでも残しておきたい名曲だ。


 私は昭和16年(1941年)生まれ、集団就職者でも地方出身者でもありません、生家は5反余りの田んぼと畑を耕す平均的規模の農家だった。総領の私は小学4年の時から、田んぼや畑仕事はもとより、牛の世話にも明け暮れた。農繁期には小学生の私も働き手として農業を手伝った。
 昭和34年高校を卒業し農業に従事した。その年の10月、伊勢湾台風による、かつてない風水害に見舞われ多くの人命も奪われ農作物にも大きな被害を受けた。私の家も吉野川沿いの田畑が濁流に流された。
 一夜のうちに田圃が無くなってしまった。社会に出て稲作一年生として頑張ってきたのに思いもよらない出来事に大変ショックを受けますます農業が嫌になり、挫折感と敗北感に襲われ、行く末についての不安に焦り悩む日々が続いた。

 もともと農業はすきではなかったし、立地条件の悪い私の農地ではこれからの時代も生活は苦しいことは分かっていた。2年の間に災害復旧工事により荒らされた水田は原状回復した。でも、自分の人生に希望は見出せなかった。

 自分には子供のころから 大人になったらやりたい夢があった。
 小学5年のとき警察予備隊との出会いがあり、通信士に憧れ将来は無線通信士になると心に決めていた。高校を卒業してからも英語の本を読み、専門書を買って勉強をした。でも社会に出てからの勉学の難しさにはどうすることもできなかった。卒後2年間のブランクはあるが夢に向かって頑張って自分の人生をもう一度立て直してみてはどうだろうか。
 思いあぐねたすえ、千葉県松戸市にいる叔父に、希望する進路・就職について、相談したく、家出同然とうとう上野駅まで来た。「あゝ 上野駅」の歌が世に出る3年前の、昭和36年(1961年)二十歳の時でした。

 「あゝ 上野駅」の歌詞の中に/くじけちゃならない人生が あの日ここから始まった/の部分に胸を打たれる。

 しかし、私の場合上野駅まで来て、大きく変わってしまった。くじけてしまったのだ。
 松戸線への跨線橋の階段の下にあった立ち食いそば屋でうどんを注文した。
 まだお昼ご飯には早いが、叔父さんの家に着くころにはお昼を過ぎるだろうから、「お昼ご飯はまだです」とは言いにくいから、喰って行こうと思い、ここで食べていくことにした。
 出されたうどんに、びっくりした。それは全くうどんではない。そう思った。「うどんを注文したのに、そばではないか」と問いただした。「兄ちゃんは関西の人やろ、東京はこれが、うどんだよ」。そう言われた。「全く所変われば品変わるか」。黒い汁に辛い味これが東京の味かと思いながら、人に押されながら口にした。人々は小走りに移動している。

 朝から鬱陶しい空だったが、急に雲の切れ間から明るい光が放たれた。跨線橋の上からの逆光の中に埃、塵が烈しく舞っている。食べる気がしなくなり、食器返却棚に鉢を置きその場を離れた。気が付いた時は東京駅にいた。

 帰路のついたが、私がこの年まで過ごしてきた村や美しい自然や人間関係と、この東京の町並や建物そこで生きている人たちの間に、何ら似ているところもなく、共通性が感じられなかった。
 「なんとなく自分の生まれた家の方がいいなあ」と感じたということだった。
 東京は私にとって「青山」ではなかった。東京での就職には縁がなかったと、一瞬のうちに判断したのだろう。

 「あゝ 上野駅」の歌の3番に /ホームの時計を 見つめていたら 母の笑顔に なってきた/ がある。
 もし、私があのホームの階段を渡って行ったら、その後、母には笑顔がなかっただろう。
 東京を後にしたが悔いはなかった。

 将来を見失って苦しんだいたとき、父は、
※「人間到る処青山あり」と。そしてそのあとに「この家にも青山(幸せ)があるぞ」と続けて言って家業を継ぐよう諭した。

 社会に出て60年。
 父から受け継いだ農業と副業で始めた印刷業で勤続疲労が進んだが傘寿を過ぎた現在も、健康で、主治医が驚嘆しているほどである。
 「自分はいい時代に生まれたと思う。生活は質素だったが、豊かな自然と、人情の機微にもたっぷりと恵まれ、情熱と労働さえいとわなければ、自分の目標を一つ一つ実現することができた」。

 家庭で社会でめまぐるしい変遷はあったが、生まれた家に住み続けた。また、良き妻、良き子、孫たちに恵まれた。私は誰よりも幸せに時を過ごしてきたのだ。
 この年になって「ここにも青山があるぞ」と言った父の言葉を噛みしめている。今、自分の胸の辺りは暖かい。

 あの日、上野駅を後にしたが、私にとっても「くじけちゃならない人生が、あの日上野駅から始まった」。

   ※「人間到る処青山あり]
「人は、世界中どこで死んでも、墓地とするところはある。
志を成し遂げるために 故郷を出るならば、どこへ
行ったとしても大いに活躍すべきである」
〔幕末の僧、月性の「清狂遺稿」による〕。

   
    あゝ 上野駅

        どこかに故郷の 香りをのせて
        入る列車の なつかしさ
        上野は俺らの 心の駅だ
        くじけちゃならない 人生が
        あの日ここから 始まった

              就職列車に ゆられて着いた
              遠いあの夜を 思いだす
              上野は俺らの 心の駅だ
              配達帰りの 自転車を
              とめて聞いてる 国なまり

                      ホームの時計を 見つめていたら
                      母の笑顔に なってきた
                      上野は俺らの 心の駅だ
                      お店の仕事は 辛いけど
                      胸にゃでっかい 夢がある

                              作 詞  関口 義明
                              作 曲  荒井 英一
                                唄   井沢 八郎


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