表野町 旧跡と伝承


表野町会館
 大津町南方に所在。明応5年(1496)坂合部殿証文に坂合部殿際目之事表野の村之中山に付而大津村と表野村と出入有之と地形的に重要位置であったらしく文録2年(1590)の坂合部検地帳に二九一、一六一石内大豆三一、一七四石。表野村あり元和2年(1616)松倉氏(二見藩)の国替により幕府領(代官宗岡弥右衛門)となり、元和五年郡山藩領(松平忠明)寛永郷帳に村高二四〇、六七九石(藩主本多政勝)延宝7年(1679)以降幕府領、天正2年(1574)坂合部城が高野僧徒に攻められ、天正8年(1580)落城までは坂合部氏の居領であり、城域は東西350メートル、南北250メートルに及び周囲には、坂合部山城、布袋山城などの支城があったと伝えられ、今も古城の想影をしのばせ当時の地域行政の中心地的な場所でもあった。昭和50年代に表野町の中程の横断する農免道路(南宇智地区霊安寺〜和歌山県橋本市恋野)が開通し、阪合部氏盛衰の歴史をしのばせながら文化産業の発展に歩んでいる町である。


@ 釈 迦 寺(旧跡)釈迦寺
 真言宗智山派の末寺である(真言宗智積院末寺)、本尊、釈迦如来立像(高さ39センチメートル)、寄せ木造りの彩色像でなかなかの秀作である。
この仏像の胎内に応永28年(1421)卯月と墨書あり、室町時代初期の作であることがわかる。尚、廃寺となった安日寺本尊薬師如来座像(高さ47、5センチメートル、膝張43センチメートル)も併祀する。またここは表野村の高札場でもあった。


A 安 日 寺 跡(旧跡)
 明治初期の廃仏毀釈の波におされて廃寺となったが、真如親王ゆかりの寺と言われる相谷の河送院と並び称せられたと言うから相当な寺であったと思われる。古図に依ってもその輪郭がいまでも知ることが出来る。


B 表野小学校跡安日寺跡

 明治19年4月19日、山陰小学校へ合併する迄の約10年間程、安日寺跡地を表野、大津、火打、田殿の四ヶ村共有地として克己舎と名付ける小学校あり、初期教育の場所となった。
(廃校となった時点から有租地となった古文書あり)


C 茶臼山古墳(旧跡)
 釈迦寺の南方小高い処にあり、高さ約20間、周囲60余間にして頂上に茶臼明神と号する稲荷社を祀る。(古図によれば茶磨山とあり、又頂上に桜花の咲く図あり)


D 毘沙門池 

 この池は古来から主がいると考えられていたらしく、古老から白馬の首が出ると聞かされ気味の悪い池であったが、昭和の初期に表野で腸チフスが流行した時、日蓮宗の信者の方が、主のたたりだと言って加持祈祷をし、それ以来小さな祠を祀る。


E 石投の由来(伝説)
 昔、弘法大師が谷向うの安日寺から投げた石が、約二百メートル程のこの場所まで届き、その手形、指形の付いた余り大きくない石を、明治の頃まで小さな祠に祀られていたのを廃仏の思想からか、わざと溝手の石垣の一石に使ってしまったとの事である。
 前述のように弘法大師が石を投げて落ちた処と云うので今も石投の名がついている。


F 天 神 社(旧跡)天神社
 字天神山に在り、切妻造り瓦葺きの小社であるが、表野町全体の祀祭する社にして天満宮なり。
 例祭菅原公の御命日2月25日、大正7年迄は天照皇大神も祀られていたが、貧弱な社のために当時の国家的な思潮として敬神観念昴揚の妨げになるとして黒駒町御霊神社の境内へ他地区の八社と共に合祀された。


G 阪合部城跡(旧跡)
 ここの城主であった坂合部氏は、平安時代の姓氏録によると坂合部連は、大彦命より出で允恭天皇の御世に国境の標を建て境界を定める職掌に関係していた部であるとあり、境合部と書かれたり、酒部(造酒司)と書かれたりする事もあって、定かでない。この城はいつ頃から出来たかも今後の研究に待たなければ解からないが、城主は一族でなくてもその時に領土を指配した者が城主になったとも云われる。坂合部城跡
 天正年間まで坂合部を支配する拠点であった。ともかく東西350メートル、南北250メートルに及び城の越、的場、馬場、土井などの地名も残し水堀跡がある。
 五條市史によれば、天正2年(1574)高野僧徒にせめられ落城、坂合部氏は紀州隅田庄にひつそく天正8年(1580)城を奪還しようとしたが、果たせず、其の後豊臣秀長が郡山城主となり直領となったとある。現在は水田となり、北部の傾斜した辺りに追手門があった処と言われ、今も武の神、八幡社が祀られている。


H 円通寺跡(伝承)
 地名に円通寺坂とか堂の前、堂の東とか言う小字名が残るのみで寺跡は不明である。
坂合部氏の墓

I 坂合部氏の墓
 表野共同墓地の中に坂合部氏の墓と言われる、ひときわ大きい五輪、無名の石塔あり。


J 表野駐在所(旧跡)
 明治22年2月26日、大野から移転して来た表野駐在所は、明治26年1月20日、大津に移転するまで、存在した事が文献にあるも所在地は判然としない。

三等三角点
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