火打町 旧跡と伝承 


火打町集会所
 吉野川南岸に所在し、西はびわのこ川を境にして和歌山県橋本市恋野に接し元亨元年(1321)の古文書も仝町に保存されている。
 昔は、火打野村とも云われ銅鐸の発見地であり、古くより文化も開け紀和国境の要地であった。
 明応5年(1496)の坂合部殿証文の「坂合部郷際目之事に表野村火打村之堺目ハベツシャウノ滝ノ首より火打村ノ八王子ノ東ノ谷迄限也」などと見え文録二年(1593)の検地帳に村高二六五石六一一内大豆三十二石四四三火打野村、寛永郷帳では村高二四八、八三石、旗本根来盛重領火打野村とある。のち火打村と改称。火打とは、火打石の山地ではなく吉野川を利用して商売が始まり、その相場とか争いについての様子を火を振って各方面に知らせた。その意味で「火ぶり」から火打野となる。その「のろし」を上げた地点は現在も「火の辻」と云われる地名がある。
 領主坂合部氏が滅亡{天正2年(1574)}したあと豊臣秀長の直領。徳川時代になって根来氏領となり、幕末まで奥地へ通ずる経済、文化の経由地として発展して来た。現在、町内を県道(五條〜坂本線)が縦断。農免道路が交叉横断して交通網が整備された。
道標

@ 火 打 崎(旧跡)
 寛治2年(1088)白河法王が高野へ行幸の途中、火打崎で足を止められた事が高野行幸記にのっている。場所は火打町では一番川に近くとび出た地点で真向いに相谷が見える地点と思われる。


A 別所の地(旧跡)
 別所とは番外地のことであり、往時国や郡司の次官が別に居を構え政務を執る所である。当時宇智郡は幕府直轄地であったことから、ここに政務を執る所があったと云われる。場所は紀州と大和の国堺で富貴街道へ入る所にある別所の地で、前に背負った山(通称丸山)が別所の山そばを流れる川を別所の川(瀧)と云われた。


B 火打遺跡(銅鐸の出土の地)(史跡)
 中遺跡の西南約千メートル、火打部落の北々西にあたる丘陵(標高約130メートル)上で、この丘陵は東南からのびて吉野川にせまり、右岸の相谷丘陵と相対している。明治12・6年の頃、この地方で伐採される木材の運搬道路を工事中たまたま工事にあたった仲山与市氏が銅鐸を発見した。
 大正5年に田村吉永博士が初めてこれを学界に紹介した。この銅鐸は丘陵斜面の地下約90センチメートル黒色をおびたやわらかな土壌中に横たえられていた。つまり、丘陵の傾斜面を鋭角をなして、鈕部を東、鰭部を斜め上向に向けほぼ東西の方向にあったというから鰭を上下とし、やや斜めに埋没していたことになる。銅鐸の形状はいわゆる定型式に属し、文様構成のうえからいつて袈裟襷文と呼ばれる系類にふくまれる。総高43センチメートルで鐸身はやや長く断面から扁円形を呈し、底部の長経22センチメートル、短経16センチメートル、両側に幅1.5ないし1.8センチメートルの鰭と呼ぶ突起帯をもち鐸身の上部に高さ3.6センチメートルの半円形の鈕をつける定型式(4〜50センチメートルを標準)に属する袈裟襷文鐸である。


C 餓 之 坂(かつえ坂)(伝承)坂道
 火打町から田殿町仲山勘定氏宅跡へ向う坂道で、中将姫がその昔、恋野の里で隠れ住んでいた頃、木の実や山菜、川魚等を取って食べていたが餓じさにこの坂をのぼり降りしつゝ里人に食べ物を乞いうえをしのいだと言われている。
 高貴な女性であった中将姫の、やつれた姿を偲びこの坂を餓え坂(かつえ坂)と呼ぶ様になった。中将姫をしのびつゝ、今でもこの地を里道として利用されている。


D お大師様井戸(伝承)
 火打町より大深街道(旧道)をすすんでいって屋根筋の高い所にいつも水の湧いている井戸がある。一名「おだいっさん井戸」と云われる。昔、弘法大師が高野山に登っていく途中、水が不足しているのを見かねて掘られたと云う。
祠

E 山の神様(旧跡)
 火打町を下に見下ろしながら山深く入って行く所に一段と高い森の中に小さな祠がある。山の神様と言われ、旧暦3月10日夜に御供の「餅まき」が行われる。御神体は不明であるが、昔は御神木とも思われる松の大木があり、大きな石がおかれて動かせばたゝりがあると云われる。


F 金毘羅さん(旧跡)
 山の神様より少し下った広場に金毘羅さんが祭られている。毎年、旧3月10日と10月10日に餅まきがあり、8月16日夜祭りがある。

祠1
G 池の守り神(伝承)
 山の神様の近くにある畑の頂上に、梵字をかいた石が数多く集められ土を覆いその上に大きな石が置かれている。
 昔、柿畑の下った所に池があり、その池には主が住み、池に近づくものを引き込み姿を消した人も数多くいたと云う。村人達は困りこの池を埋め、そのたたりを恐れ、ここに供養したとの伝えがある。


H 八王子神社(旧跡)八王子神社
 火打町の東南方にあり、祭神は素戔鳴命、旧式外雑社、本殿内の明治11年の棟礼に八坂神社とあり、同26年の棟礼に建速須佐之男命とあるところから一応祭神は素戔鳴命といわれている。
 社内に銘板があり「奉正還宮八坂神社」「奉正、宮健速須佐之男命」とある。御神体を剣とも鉾とも云われる。
 境内社に稲荷社、愛宕神大神宮、巌島神社、春日社、出雲社(明治41年10月、神社財産帳)とある。
 本殿前に2基の石灯篭(一基には文政六年(1822)五月吉日、当寺一代教朝とある。当寺とは、西金寺のことであろう。 現在も五穀豊穣を祈る火打町の神として、毎年12月第1日曜日に亥の子の祭りが行なわれ、「餅まき」がある。又、8月19日夜火ともし行事があり、「うら盆祭り」が行なわれる。又、町内に危篤の病人が出ると一家に一人は、出て夜神社前にて千巻心経を厳修し、病の平癒を祈る。


I 夜泣地蔵(おたきの地蔵)(旧跡)
 西金寺境内にある小さな地蔵堂(昭和47年、7体の地蔵がおさめられる)古来より夜泣きする子供のためにお参りしたと伝えられ、毎年8月24日夕方より祭事がある。地蔵尊
 平成20年7月に、地蔵堂は移転されました。
 7体中6体は、古来より西金寺の管理下にありましたので、西金寺さまが祭祀しております。
 おたき地蔵尊は、尾尻より移動してきたとのことで、火打町の管理下にありましたので、奈良交通火打バス停前に移動しております。


J 八幡さん(旧跡)
 火打町677番地。火打町羽根県道富貴線を下に見下ろす雑木林に、一本の杉の古木があり、その根元に八幡さんと云われる社がある。お祭事は毎年「亥ノ子」(現在は12月第1日曜日)の日新穀祭が行われている。


K 不動さん(旧跡) 
 火打の西方、和歌山県との県境に小さな棚田の落水を集めて、西川に落ちて行く溝がかなりの深さにえぐられ小さな滝となつている。そこの小さな空地に椿の古木があり、その下に不動さんが祭られている。現在は亥の子(12月第1日曜日)(昔は、12月8日)収穫感謝際が催される。 昔の人々はここを藤の森と言っていたそうだが、現在は小坪と言っている。

びわのこ県境
L びわのこ(伝承)
 「琵琶のふち」「琴のふち」とも呼ばれ、中将姫の伝説につながる。中将姫が生まれた故郷や親をしのんで琵琶や琴をかなでた場所であり、それが「びわのこ」と言われるようになった。ここに冷泉がわき、薬の水として水桶に汲み、これを運んで入浴したとも伝えられている。


M 問屋垣内
 火打町尾尻垣内と呼ばれ火打では、最後尾の所にあり、紀の川と吉野川の境に近い処である。川を利用した唯一の交通機関として発達した所で、木材を筏で和歌山へ、和歌山からは塩や大豆、日用品が舟で上って来た。大豆は主に富貴、野迫川へ上り、高野豆腐の原料となった。和歌山へは高野豆腐や樽丸等が交流された。又、別所川の水を利用した水車を廻し、精米業を営み、野迫川、十津川方面へ送っていた等、当時の問屋垣内は、相当栄えたところで、25戸の屋敷跡も認められている。

西金寺
N 西 金 寺(旧跡)
 寶生山、西金寺と号す。(高野山真言宗)
本尊、地蔵菩薩立像(仏高93センチメートル)他に前立地蔵像(仏高43センチメートル)阿弥陀尊像、千手観音像、不動明王像、愛染明王像、弘法大師像など安置。
 本堂(3間に3間)宝形造本瓦葺、火打町の東南八王子神社の北に位置する。旧坂合部郷内の、中、大津、山陰、表野、田殿、大深、大平、火打の寺務を司る。
 寺の由来は、定かでなく、過去帳も古い物はあまりない。その内、本堂棟札三枚が建立の時代を物語っている。最古の棟札には、明歴四戍戍三月吉日(1658)と有る。次の棟札には享保十五庚季(1730)八月吉良鳥とある。3枚目は文政十二巳丑天(1829)五月吉祥鳥とともに地蔵堂再建とかいてあるが、前の一枚には再建の文字はない。寺にある墓石には室町時代末期頃のものもある。


O 堂 屋 敷(伝承)
 火打町の中心部に堂屋敷と云う地名がある。村の言伝えでは昔ここに寺があったのではないかと言われる。元亨元年(1321)火打野村定便上座龍善が新田を開き八王子神社に寄進した時、その龍善の宿としていた宿坊跡ではないかともいわれている。 火打町有文書によると、
 1、火打野村定便、竜善、水田寄進状
奉寄進 火打野鎮守八王子森水田等
合 大 者
在大和国宇智郡坂合部郷火打野村  
東小深河  南大深
  隈四室  西本田類知  北小深河
  右の件、水田者 今始所開新開祖也 而為在地
  安穩 鎮守興行 為高野山常光院御領
  火打野定便上座龍善 計 
 永遠奉 寄進鎮守八王子者也 是全不為私
  然為御山安穩 庄内泰平諸人快楽 自身 
  滅罪生善 惣奉始上一天下 至百姓万民
  御願成就所願円満 所奉寄進之状如件
  元亨元年西辛 十一月二十四日(1321)
   上 座 龍 善
保存されている以上の文章から火打村を想像することができる

           県境の三叉路

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