犬飼町 旧跡と伝承 
 
釈迦寺 犬飼町は古代より犬養部(田租を司る職掌)の一族が住んでいた処から犬飼と云う地名となったものといわれ、また弘法大師が高野山へ入山した時、先導した犬を飼っていた処からとの伝承もある。吉野川北岸、二見町と上野町の中間に所存し、明応五年(一四九六)の坂合部郷際目の事に「犬飼村、上野村の堺目ハ桧谷ノ谷口より、犬飼嶋の八幡畑ケの西ノカテ上野ノ嶋云々」とあり天文初年(一五三三)の畠山在氏書状に「宇智郡酒合部之内犬飼分」とあり、古くより開けた土地であり、吉野川河畔に深闇(ミクラ)城跡がある。
 領主坂合部氏が滅亡(天正10年(1582))した数年後、徳川時代に入り、旗本赤井太郎左衛門領、元禄郷帳では村高一一三石三斗四升二合、赤井平右衛門領となっている。当地は、弘法大師(空海)にかかわる関係も深く転法輪寺、狩場明神、大師塚、明神塚、丹生明神社等があり、大師塚、丹生明神社には各々天文二十一年(一五五二)の石標が建てられている。現在、二見地区から県道(五條ー阪本線)JR和歌山線、国道二四号線、其の他市道が縦横に入り、半市街地しつつある。



tenpourinji①転 法 輪 寺
  真言宗、高野山派
本尊、弘法大師坐像、木彫彩色像
    (像高60センチメートル)、
    弘法大師像(鎌倉時代作と
    見られる。)
    狩場明神図(室町時代作)、
    転法輪寺縁起
本堂 宝形造、銅板葺(方三間)
    内部折上、小組天女
庫裡 入母屋造、本瓦葺

 不動明王像 弘法大師像 聖観音立像(高さ90センチメートル)
行者像 上記2像は、カラスが堂の仏像と云われる。
大師塚(古墳) 庫裡の裏にある方形の塚(古墳)経12メートル程。昭和16年(1941)塚より須恵器、土師器、馬具、直刀、鏡玉を副葬品をして、出土。このなかで須恵器の草袋形土器は類例の少ないものとして著名である。
「南無大師遍照金剛天文二十一年(1552)二月二十一日」と刻む石標がある。

 転法輪寺の由緒
 寺伝によると、弘仁七年(816)空海の創設する処と云われ、ここが狩場明神との御立会の霊域と称されている。
 当時は犬飼山と称し、草庵は遍照庵と称した。川崎甚左衛門(法名道和法師)を住わせた。その後、遍照庵を転法輪寺と改め、空海の弟子杲隣大法師が住職となった。
 仁寿3年(853)隣全法師の代に、犬飼山遍照院転法輪寺と改称した。その後、第30第住職、権大僧都実常のとき火災にかかり、空海の遺物大半焼失、降って、永正2年(1505)本堂、庫裡再建、それより12代を経て、万治2年(1659)大師堂および両明神の神殿を再建。14代を経て、大阿闍梨立弁の代に今の建物を建立、空海より法脈相続して67代になると云う。

sanno-tenma
② 狩場明神 丹生明神社(旧跡)
 狩 場 明 神 祭神、高野御子命
 丹生明神社 祭神、丹生都比売命
 社殿、両社共に春日造り、二軒
 繁捶を打ち彩色を施す。屋根は銅板で覆う。
 境内社に山王神社(大山咋命)菅原神社がある。




sanno-tenma
 明 神 塚(旧跡)
 社殿の背後にある「南無丹生大明神」天文21年(1552)と刻んだ石標が立っている。。境内は、転法輪寺と同所で、空海が弘仁年中に寺を建てる霊地を求めて各地を遍歴のとき、狩場明神に逢い、高野山の霊地を教えられた所であると伝えられている。




③ 釈 迦 寺(旧跡)釈迦寺
 本尊、釈迦如来座像(仏高36センチメートル)、本堂、4間半に3間、切妻造り、四方庇、桟瓦葺の堂庫裡。昭和33年に改築。
 当寺は、天台宗でもと吉野山竹林院の末寺であったが、明治7年に変更。現在は転法輪寺住職の兼務となっている。尚、寺の近くに山王大権現、天満宮がある。




④ 城 の 坂(旧跡)
 吉野川河畔に深閣城(ミクラ)(砦に近いものかと思う。)現在の御蔵団地の南東にあたる地域で、此の辺りは昔、交通の中心地で吉野川を守り、外敵の侵入を防ぐためこの地に砦を構えたものと云われ、通称城山という。この城に通ずる道を「城の坂」と云う。
 「日本書記」安閑記に「詔して国々に犬養部を置く」という記事あり、犬養部の職掌のため築かれた屋敷跡で、其の後、城として運用していたのではないだろうか。


⑤ 烏 が 堂(旧跡)odou
 以前は伊勢街道ぞいの北側の赤松林の中に大きなお寺があって、その境内にあったお堂で弘法大師がこの地で修業されたとも云われ、伝記によれば、当時、堂の裏に大きな樫の木が茂っていて森を形成し、その森に多くの烏が巣をかけて住んでいて、大師が修業中「にわか雨」が降って来た時、烏達が弘法大師の頭上で羽根を拡げて、傘の替りをして雨を防いだところから「烏が堂」となったと云われている。
現在は、転法輪寺に仏像は安置され、JR和歌山線のガードをくぐって100メートル程北に行った処に、小祠を建てて、往時の面影をとゞめている。


⑥ 犬飼小学校跡(旧跡)
 明治維新政府は、明治5年(1872)8月3日、学制喚布せられ、明治7年5月17日、転法輪寺を借用して、犬飼就教舎として、畑ヶ田、木ノ原、大沢、犬飼、上野、相谷、降霊寺新田(現在相谷内)各村児童、男25名、女13名、教員2名により開設せられた。
 当初は第三大学区、第十五番中学区、第九十四番小学校と名づけられたが番号では親しみにくく、誤りも生じ易いので、学舎名で呼ぶことが多く明治8年に至り、犬飼小学校となった。阪合部村立第二小学校の前身である。


⑦ 御蔵の渡し船についてmikura
 現在の県道にある御蔵橋の下に、昭和4年架橋せられるまで、阪合部村営の渡船場があった。渡し船は、木製の底の平な定員6~7名位、昼間は、船頭が付いていたが、夜間は不在であった。渡し船は通常、導線に頼り竿も櫓も使わず、直径8ミリの導線を両岸の適当な岩に固定して、水面2-3メートル位の高さに張り、船頭は此の導線を握りながら舟を進めて客を渡した。夜間川越えする人には、船頭が居ないため船が対岸に乗り捨てになって居る場合もあるので、引綱(呼び綱とも云った)で、舟を引き寄せて自分で導線を握って渡った。引綱は導線に径30センチメートル程の針金の輪を数多く通し、此の輪と輪の間隔を2-3メートルにして、引綱を輪に結ぶ。引綱は細い綱で川巾いっぱいの長さのもの2本用意し、これで船を引き寄せる事が出来る簡単な操作であった。但し、川の水の増水の場合は早めに導線を巻き挙げてしまい、渡し舟不能となる。その場合は、大川橋(五條-野原間)に迂回した。 
相谷~大津間の渡舟も同様な要領で運用していた。尚、架橋せられるゝまでは阪合部村営として、(犬飼~中間)(相谷~大津間)(黒駒~川端間)3個所の渡船場が運営せられていた。

御蔵橋 

 このページの先頭に戻る