樫辻町 旧跡と伝承

樫辻町集会所 市道焼尾線を登り、賀名生(西吉野村)に通ずる途中にあり、明応五年(一四九六)の坂合部殿証文に樫辻村モ田畑屋敷満てにて)云々とあり他村との境界も詳細になく独立した立地で坂合部に属し、文録二年(一五九三)の坂合部郷河南方検地帳に七拾九石五斗一升七合樫辻村とある。慶長郷帳では松倉重政領、元和郷帳では「松豊後跡知行」として幕府代官宗岡弥右衛門が支配する。元和五年(一六一九)以降、郡山藩(松平忠明)領、寛永郷帳では村高九八、三一二石、領主は本多政勝、延宝七年(一六七九)以降幕府領。大和志には、旧柏山とも云われている。
  廃藩置県により明治三年五條 県に属し、後二年を経て奈良県 に九年、更に堺県十四年、更に大阪府に併す。明治二十年奈良 県、二十二年奈良県宇智郡阪合 部村大字樫辻、昭和三十二年五 條市発足と共に五條市樫辻町と なる。立地的に賀名生に近接し ているため、初等教育等は西吉 野村立賀名生小(中)学校に委 託教育を受け現在に至る。

@ もろっぽ地蔵尊(旧跡)
もろっぽ地蔵 場所は小字狼谷、伝承によれば、其の地には特に狼が多く野良仕事にさしつかえるために「狼よけ」として地蔵尊を祀ったと云われる。
 尚、この前を通る道は阪合部郷はもとより、和歌山方面の人達が西吉野村黒渕の「ふげんさん」参りの近道として利用され、大野林道に今もその道しるべの石が建っている。北曽木の人達も五條方面行きは皆この道を利用したものである。この地に志ある人が地蔵尊の社をもろっぽの木で作成し寄進し、又横に「もろっぽ」の古木があり、その後誰言うとなく「もろっぽ地蔵」と呼ぶようになる。
 昭和五十九年の二月樫辻町の有志にて祀壇と社を新たに作り、今まであった古木も枯れてなくなった為に、横に新しく「もろっぽ」を植えた。

A 春日神社
春日神社殿 場所は向良にあり、平安の昔から樫辻に祀れて祭日も奈良春日神社と同じである。祭神は「武甕槌神、天児屋根命、経津主神、比洋神」本殿は一、五メートル四方流破葺の春日造りで向拝の屋上に千鳥破風を付けたような建物で前に切妻造り妻入りの拝殿がある。
 奈良の春日大社の別社で五條市内では唯一の春日系の神社で以前は阪合部郷の神社として祀られていた。戦後樫辻町で祀っている。
祭日は、一月十七日、八月十七日、十月十七日、三回神官によって祭事を司っている。

 昭和六十一年に町民及び有志の寄進により、拝殿の改築を行う。尚、屋敷、石垣等は町民の出役により整備をなす。

B 大和索道 樫辻駅跡(旧跡)
 明治四十五年に二見より富貴までイギリス人の技師が来て、樫辻で泊り色々と指導を受け開通し、大正六年に大塔村坂本まで延長十六キロメートルで一般の貨物を輸送する。日用物資は奥地送り、山林関係の生産物はこれにより搬出した。その後、立里の金屋渕まで延長、大和索道から千原工業に移り、最後には住友工業になっていた。時代の変転と共に、自動車道が出来て、自動車運送するように昭和三十五年役五十年の輸送業務の幕は閉ざされる。 尚、樫辻駅を作るに当り、人足に樫辻の人が大勢働き土砂の下敷になって、二人の人が亡くなっておる。社宅もあり、常駐して住んでいた駅員もあった。最初は石炭で釜をたき蒸気の力で動かしていたが後に電力に切り替えた。

C 乙 姫 渕(伝承)
 昔若乃亟、乙姫という人が渕の上で小さな家を建て住んでいたと云う。家敷跡が今もわずか残っている「女姫渕」と云うのもこんな処から呼ぶようになったようである。又「わかん渕」とも云う。
 昔の人の話では、この渕より「龍王の滝」までの間、川にみずあかが出来なかったそうで、人々はこの道を恐れて、わざわざ急な坂道を登って樫辻を通り、五條方面に行ったそうで、この道を通って幕府の命を受けた紀州の軍勢が天誅組を討つために、よろいの音をひびかせて賀名生に行ったと伝えられている。
 又、此の時より少し前に富貴が焼打され坊城の山越に真赤に成って見たそうである。其の頃に子供達が良く唄って遊んだ唄を紹介します。
   天誅さんは偉い
   天誅さんは偉い
   天誅さんの刀は抜かんでも切れる
   紀州さんの刀は竹のへら

D 竜王の滝(旧跡)
 乙姫渕より下流二百メートルに有って、落差約五十メートルにて大雨の日などは、ゴウゴウと音を立てて、あたり一面水しぶきを上げて見事な景観である。西吉野村北曽木の梅林(通称、賀名生の梅林)の花見客の宣伝のために「うぐいすの滝」と称しているので、最近の人達は「うぐいす滝」と呼ぶ人が多い。

E 専 崇 寺(旧跡)
専崇寺・文教場跡 浄土真宗、本尊阿弥陀如来立像(高さ六十九センチメートル)、本堂、三間半に四間、庫裡、四間に二間半、由緒として明治十年七月十七日下市町善城の竜上寺より移転したとも云われている。
 昔は、西の浦の上東西八間、南北八間の本堂、北側に六間と三間の庫裡があり、吉野建で、西本願寺の末寺で大きな立派なお寺であった。昭和二十六年二月火災にあい焼失した。
 昭和三十二年に滋賀県膳所の旧家より買入れた「仏壇」を仮寺として建てた処に現在は祀る。尚、旧寺の東側に二階建があり、二階は太鼓堂、一階は寺小屋として、昔の人はその寺小屋で学んだと云う。(簡易科教場または樫辻分教場)明治三十一年、教育の充実のため賀名生北曽木小学校に委託となり当分教場は廃止となる。
女姫桜立札 尚、此の文教場の横に現在残って居る桜は、鶴谷氏の先祖善臣氏が十五才の元服を記念して植えたそうで、五條市でも外に無い程大きく立派に成って居る。春日神社にも其の時に植えたそうである。町民が薬剤散布などして大切に守っている。

 樫辻の祖は、南朝時代の武士が堀家領で土着したとも伝えられ、宗教も以前は真言宗であったが、浄土真宗の高僧が下市から城戸、大塔方面に布教に廻り、その時樫辻も浄土真宗に替ったようで今も続いている。
 古文書等は寺に置いてあったが焼失し、残念なことと云われている。

            乙姫桜

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