中町 旧跡と伝承


集会所-松籟館 国道24号線犬飼分岐点より南へ吉野川にかかる御蔵橋を渡ると中町となる。縄文時代からすでに住民が住み開けた処らしく、標高約100メートルの台地に、昭和32年(1957)阪合部小学校新築の際に縄文、弥生時代の土器のほかに石器も発見され中遺跡となる。

 近世代からは、阪合部地区行政の中心的位置にあり、吉野川に沿った段丘地で明応5年(1496)の坂合部殿證文(古澤氏に伝わる古文書。現在、五條博物館に3巻が保管され一巻は陳列されている。)に「中村黒駒村之堺目ハフチノウエノ谷口より宮之下之四ツ辻より南へ廻り宮之馬場さ起よ東へ道限り」 などと見え、慶応郷帳では松 倉重政領、元和郷帳では幕府代官宗岡弥右衛門に支配され た元和5年(1619)以降 郡山藩領寛永郷帳では村高二七四、二六四石、延宝7年 (1679)以降幕府領、現在も地区内教育、農政、文化 施設の中心地である。

@ 中 遺 跡(史跡)

 奈良県のほヾ中央を東西に流れて、北部の奈良盆地を中心とした低地と南部の吉野山地とを両分する吉野川は、水源を高見山から大台が原山につヾく台高山に発し、起伏の大きい土地にV字形渓谷を形成しながらいくつかの支流を合わせ、両岸に河成段丘を発達させつヽ五條を経て和歌山へ流出している。和歌山県に入り紀ノ川となる。この吉野川を生活源とした、先史時代の集落の中に中遺跡がある。先史時代の遺跡がおおむね吉野川流域に存在する理由は狩猟と採集を合わせた古代人の生活の場であったことであろう。中遺跡に隣接する稲荷神社
 中遺跡は、吉野川左岸の台地標高100メートル上に位置し、吉野川の断崖に接する傾斜地で阪合部小学校の運動場東側から校舎付近にわたる一体の地域と推定される地表下20センチメートルで土師器と弥生土器を主とする層があり、地表下1メートルから1.2メートルの間が縄文土器をふくむ層となっている。

              中遺跡に隣接する稲荷神社




A 阪合部村役場跡
旧役場現在は農協 明治22年(1889)町村制が施行、阪合部村も呱呱の声をあげ、中町医光寺の庫裡を借り入れ、昭和8年(1933)新庁舎に移るまで45年間行政を司さどる。昭和32年(1957)10月、町村合併に依り五條市となり、24年間、合計69年間にわたる阪合部役場の看板は下された。
 初期役場跡は、医光寺庫裡。合併廃庁後は五條市農協阪合部支所として新築、地域農業振興の中心地となっている。

B 阪合部第一小学校跡(旧跡)
 明治34年(1901)山陰小学校が移築し、当町地区にて学校教育の場となり、明治39年4月(1906)名称を山陰尋常高等小学校と改称。明治40年より尋常科6年、高等科2年となる。大正7年(1918)より村直営、大正11年4月より阪合部第1尋常高等小学校と改称。当時の校地坪数624坪、建坪142坪、運動場209坪となっている。S19小学校
 昭和16年4月より阪合部第1国民学校。
 昭和22年、学校教育法公布六、三、三制となり、中学校発足と共に高等科が中学校となる。
 校舎は、四棟とこれをつなぐ廊下、管理室、便所である。南校舎と中校舎を結ぶ渡廊下は巾1間の窓なし腰板張であった。
 南校舎は1、2年生、中校舎は3、4年生の教室で南校舎と中校舎の間は中庭と云った。
 中校舎は教室と教室の間仕切りを簡単に取外し出来て講堂の代りにも出来た。中校舎と北校舎の間にもう1棟があり5、6年生が入り、時には高等科1、2年生も入っていた時には教員室となった。
 北校舎は大正13年(1924)改築、木造2階建校舎1棟4教室となる。
 昭和32年(1957)第1、第2小学校統合し、阪合部小学校として新校舎に移転。
 学校跡は、ひととき南校舎を保育所として使用したが、保育所新築と共に農協選果場として改築せられ農業新興の場となっている。
旧阪合部中学校
C 阪合部中学校跡(旧跡)
 昭和22年学制改革に依り、阪合部中学校々舎を新築準備、昭和24年(1949)9月竣工、開校したが教育場所として適当ならず、昭和4年造成された小学校運動場(中学校々舎の一段下)へ昭和32年移転。昭和42年(1967)五條中学校として統合するまで中学校教育の場となった。
 阪合部中学校は閉校となり、中学校跡は製薬会社の工場となっている。
五社大明神

D 五社大明神(旧跡)
 社殿は、銅板葺で流れ造りの中央に千鳥破風を重ね五間に区切った建物(1.8メートルに0.8メートル)であるが、整った祭社である。
 天照大明神、巌嶋神社、八幡神社、御霊神社、八坂神社の五社となり、毎年10月17日例祭である。

E 医 光 寺(旧跡)
 医光寺は高野山蓮花谷明院末寺の真言宗古義派で山号は将来山といい、大和新四国五十番の霊場である。
医光寺 本尊は薬師如来立像(高さ90センチメートル)全体にずんぐりした感じの類の少ない尊容である。住職は火打西金寺兼務である。医光寺に現存するものは、本殿、庫裡、其の他で医光寺の沿革史は「弘法大師高野山開創」と云う本によると、以前釈迦如来を本尊としていたのが天平年間(729〜748)行基(749年死す)六十六ヶ国の金堂の本尊を薬師如来とした事から多く薬師如来を本尊とするようになったと云われる。
 医光寺の本尊が薬師如来である事から医光寺は其の頃に建てられたのではないかと考えられる。

F 延 命 寺(旧跡)
 延命寺は高野山蓮花谷光明院末寺、真言宗古義派(県立図書館資料館調べ)本尊に関する古い記録延命寺は現在のところ見当たらない。山県氏の祖先が一門の冥福を祈るため所謂一建立の寺であり、創建は徳川中期以前と伝えられている。高野山光明院との関係が深くその末寺であった。安政6年、同寺から寄進せられた供膳部四膳がある。
 本尊地蔵菩薩の命日には之を用い毎年勤行している。現存する御礼によると延命寺には医光寺の奥の院である。衣文の表しかたといい、刀法といい、医光寺の薬師如来と酷似していて同一人の作とも思われる。観音菩薩立像、弘法大師坐像が安置してある。

G 大とんど(伝承)
とんど行事 毎年1月14日。明應以前から行う荘園行事で、正月用の飾り物や、神さまの古いお社などをとんど場で焼く。また、正月の小餅を竹の先に挟んで焼いて食べる。食べると虫歯にならないと云われた。とんどは、青竹を立て飾りの縄で周囲をぐるぐる巻きにし、竹の先端の方をその年の干支の方向(アキの方向)を指すように曲げる。小屋がけのようになった中に正月用の飾り物や、神さまの古いお社などを入れて燃やす。
 子どもたちは、書初めを正月2日に行い、このとんどにその書初めを供え燃やす、燃えながら高く舞い上がれば上達し出世するといわれている。そのとんどの火種を持ち帰り、灯明として神棚にあげ、翌日の小豆粥を炊く時の火種とした。念仏寺の鬼走りが始まる夕刻に行われる無病息災を祈る行事。この時の火付け役は代々古澤氏が行う。

H 持  岩(伝承)
 吉野川は千古の昔から五條市の東より西へ、そして中町と犬飼町、上野町、相谷町の境界を静かな清流として限り無く流れている。この清流も台風が襲来し、豪雨でも降ればたちまち水かさは増し、濁流が岩を噛んで物凄い激流があたかも地獄のように化するのが通例である。黒駒町の西薮先から御倉の通称(鼻つき)にまともにぶつかった激流は左に折れて、その流芯が中町の持岩に当り、さらに右に折れて遠く和歌山県へと流れて行く。御蔵橋下長さ200メートルもあろうかと思われる。この巨大な岩が激流を阻み、中町の存在を護っているかのようである。古代(いつの時代か詳でない)の住民は誰いうとなく、この巨大な岩石を「持岩」と名付けた。この巨岩が存在しなかったとすれば、浦の段垣内は愚か鍛冶屋、中筋、分瀬の各垣内はみな浸触せられて、吉野川の中心になっていたかも知れない。
 中町の集落の存在するのは、即ち持岩が存在するからであり、住民の生活を護ってくれるのは持岩の存在以外何物もない。人々はそう信じ、永久に水に依る浸触のない事を神かけて祈りを捧げるため、毎年10月17日を五社大明神の祭日と定め、持岩の永久不変を祈る。

坂合部郵便局付近
I 道  標(旧跡)
 奈良県告示に阪合部村元標「阪合部村大字中字屋敷66番地先」とあり、現在阪合部郵便局の設けられている場所が同番地でその前、県道端に設置せられていた。(昔の阪合部村役場へ通ずる道路の入口) 但し、其の後の県道整備、拡幅等のため撤去せられ、現在は其の元標の姿は見られない。

 坂合部郵便局
  昭和18年11月11日 新設開局
  昭和52年9月12日 改築


J 保 育 所(旧跡)

阪合部保育所昭和28年4月 黒駒町福生寺に阪合部保育所開園 園児60名
昭和32年4月 阪合部第1、第2小学校統合。新校舎へ移転のため、阪合部第1小学校、中町338番地、339番地あとへ阪合部保育所となる。園児70名。
昭和48年4月 園児80名。
昭和52年7月1日 中町315番地の1へ阪合部保育所竣工移転。

K 駐 在 所
明治14年3月 堺県を廃し大阪府に合併せられる頃、上野村に上野警察分署を設置し五條警察の直轄より割きて阪合部村一円、牧野、南宇智の一部を管轄区域として上野分署の所轄とし五條警察に属せしむ。
明治21年4月1日   巡査駐在所を上野村、大野村に置く。
   (上野分署に属す)
明治22年2月26日  上野分署内大野駐在所を表野に移転。
明治26年1月20日  表野駐在所を大津に移す。
昭和6年5月15日   大津駐在所を阪合部村大字中に移す。
   (担当区域、阪合部村。中、黒駒、大野、表野、
   大津、火打、山陰、田殿、大深、大平、樫辻)
阪合部駐在所五條警察署阪合部駐在所として現在に至る。









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