大野町 旧跡と伝承


大野町集会所 御山町、黒駒町の南方に位置し中町にも接する。明応5年(1496)の坂合部殿証文ノ「坂合部郷際目之事」に「中村大野村之堺目ハヒトツカシノ北ノ谷之南ノキシキワ中村之池迄堺目是也」などとみえ寛永野帳に領主は旗本根来氏、元禄郷帳の村高は144ー148となっている。
 大野町、南宇智地区御山町との境界にまたがり井上内親王の山陵がある。(宇智陵)
 大野の地名については、山の裾野、緩傾斜地帯で吉野川を遡った先人達が直観によって命名された地名で、開発以前の古地名あ り代々踏襲して来た。
  また、地蔵寺山とか地蔵寺 跡等の伝承地もあり古くよ り開発せられて来た土地と も思われる。
宇智稜
@ 宇 智 陵(旧跡)
 農免道路ぞいの御山町に 接する境に宇智陵がある。 宝亀4年10月(773)光仁天皇の母姉に当る難波内親王が薨じた5日後に、井上内親王は、難波内親王を厭魅したと、藤原百川の背後の暗躍にあい、他戸親王ともに宇智に幽閉され、宝亀6年(775)4月に至って母子ともに卒したのであるが、二人の死は極めて不自然で陰謀にあわれたとの風評は当時世間に流れたらしい。その後、井上内親王の怨霊とかで各所に天変地変が起こり、延暦10年(800)7月に至って垣武天皇は、同じような非運に死んだ皇太子早良親王に崇道天皇の追称(淡路島に葬られる)を与えると共に井上内親王を皇后に復し、その墓を山陵と称さしめ現在の地におまつりしてある。
大野観音寺
A 観 音 寺(旧跡
 井上内親王陵(宇智陵)より南へ700メートル程行った山側に大野町の観音寺がある。
 真言宗、吉祥寺の末寺となっており、新四国八十八ヶ所四十八番の霊場で、本尊は十一面観音菩薩立像(高さ30センチメートル)他に地蔵菩薩の座像と立像、多聞天立像、大威徳明王像、弘法大師座像二体等、多数の尊像が安置されている。
 ひときわ目立つのは、阿弥陀如来座像である。総高52センチメートル、漆泊の定印を結んだ内刳像、藤原末を思わせる感じであると云われている。
子安地蔵
B 子安地蔵(旧跡
 中町と大野町の境に近い市道ぞいに祀る小詞である。子供の健康を守り、また安産の地蔵さんとして信者は現在も多い。




C 地蔵寺跡(伝承)
 井上内親王陵(宇智陵)の西方に地蔵寺跡と云われている処がある。現在は畑、並に山林となり何も残っていないが此の付近の台地を地蔵寺山と云われ、寺の跡てあった事を裏付けている。尚、当時寺域内であったかと思われる、山林の西北傾斜面に古い墓碑が数基埋って居り、数年前に主な石碑を当町、観音寺境内に移し供養した。(3百年位前の墓碑)其の他は何の資料もない。




          平池

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