この写真を見ると、隣家の過ぎ去りし昔を思いだします。
写真の背景は白壁の大きな邸宅で昭和40年ごろまで病院でした。大きな木が写っていますが桜です。80年前も有ったのですね。今年も綺麗に咲いてくれました。
(昭和16年1歳)
『空蝉の家』
私は今、この家の母屋の日当たりの良い縁側に座って中庭に映る若葉を堪能して思い出に耽っています。
昨今、田舎では古い空き家がどんどん増えて問題になっています。少子高齢化、子どもたちは都会へ出ていき後を継ぐ人がいなくなった結果です。明治・大正・昭和の風情を残し、そこに住んでいた人たちの思い出が詰まった家は、なかなか簡単に手放したり、壊したりできません。そういった古民家の再利用なども一部では進んでいるようですが、実際には田舎に住みたい人はそれほど増えていません。
こみあげる「なつかしさとやるせなさ」をまるでドラマのワンシーンを見ているかのような思いがします。
中学時代の思い出の中に、朧月夜、秋の夜長にはお座敷より中庭に向かって能「中之舞」をよく演じていた。奥様は小鼓、先生は扇片手にすり足。夜の静寂の中に聞こえるつづみの音は子ども心には官能的でした。
今も長押の上には能面が飾られてある。感激だ。
『人親』
病院だったゆえ毎日正門は開いていた、小さいときは毎日中庭に入らせていただき楽しく遊んでいました。その景色は70年が経った今も私の心の中にそのころのまま鮮明に保存されています。
院長先生のお名前は「山縣人親」と言いました。
私は昭和16年生まれ、いわゆる焼け跡世代の人間である。
(太平洋戦争が始まった昭和16年から終戦の翌年である昭和21年まで幼少期と少年期を第二次世界大戦中に過ごした世代。)
小学低学年のころ学校をよく休んだ。虚弱体質だったので、この病院でよく診察してもらった。
4年生(9歳)の時に貧血でふらつくことが多く診察してもらった。
診察の結果、腺が細い、体格が貧弱で貧血ぎみ、虚弱で神経質で抵抗力が弱く、感染症にかかりやすい腺病体質だと言われた。
人は健康が第一、健康でなければ幸せにはなれない。体質改善にはカルシウムを必要十分な量を長期にわたって摂取することが必要だ。と言われた。
終戦直後の先の見通し不明の混乱の中、国民総栄養失調、まして食糧不足のおり、どうして栄養を取るのか。両親は思い悩んだそうだ。
そんな中、先生は牛乳が良いだろう、そう言って五條町にある牧場を紹介してくれ、搾りたての牛乳を毎朝配達してもらうことになりまた。
高校卒業するまで牛乳を飲んだ。最初は生臭い感じがして好きではなかったが日課として長い年月飲み続けた。それは人親医師の適格な判断と、両親が私に対しての深い愛情であったのだ。お蔭様でその後高校卒業まで皆勤でこれた。卒業のときは背の低い順番では前から3番目だったが30代の同窓会では一番背が高く、スリムな体躯ではあるが肩幅も広くなっていた。
弱い人間として生きていかなければならないところお隣が病院であったゆえ、人親先生という偉大な医師に助けられ今日まで大病も無く過ごしてこれた。日々心より感謝して生きてきた。誠にありがとうございました。心より御礼申し上げます。
昭和40年ごろ奥様が亡くなられ、人親先生は病院を閉じて大阪へ行かれた。
その後親戚のご一家が住まわれましたが殆どの方が亡くなられ、現代嫁がれた娘さんが大阪に居られます。何分ご高齢にてこちらに来られる事も少なくなっています。故郷の廃家を思っていることでしょう。 |