山陰町 旧跡と伝承 

山陰町集会所 中町南方丘陵北面に立地し明応5年(1496)坂合部殿証文に「山陰村、中村との堺目ハツマタ池ノ堤ヨリホウノ木谷へヲリサカリ是アリ」と云われ、文禄2年(1593)の検地帳に百八拾五石六斗八合内大豆拾八石七斗二升六合)とあり、旗本根来盛重、根来長守領、元禄郷帳には「山影村」(一九二、七五六石)とあり、領主は旗本根来正縄「大和志」に「山影村」天保郷帳には「山陰村」とある。地名については、地形名から出たものと云われている。坂合部氏の居城があったと言われる表野町の隣に位置し、坂合部氏滅亡(天正2年(1574)落城)後、一時領主の変転があったが約20年後徳川時代になってから、根来領となり徳川時代の行政の中心地(代官屋敷)廃藩置県後教育の中心地(井上氏屋敷跡利用)として山陰小学校開設。表野小学校の統合。大正7年、山陰尋常高等小学校は中地区に校舎移転する等々の歩みを以って山陰町は発展して来た。
 現在、町の中央部には農免道路が横断し往時の行政、教育の場から、今は産業文化の地として静かに位置している。
金剛寺

@ 金 剛 寺(旧跡)

山陰町220番地、新四国八十八ヶ所五十一番霊場。山陰町の中央部に南面して建つ真言宗光合院末、本尊十一面観音菩薩、外に多聞天像、弘法大師座像、釈迦誕生仏、地蔵菩薩、薬師如来、などが安置されている。当寺最古の紀年銘の位牌は「寛永十一年(一六三四)権大僧都長算和尚」で裏面に「元祖根来愛染院殿天明壬寅(1782)8月11日建立」とあるので、これによって本寺創建を寛永以前と求められるが当地に伝わる伝説などよりしては、弘法大師が高野山と京都東寺との間を往復され、当地に立寄られたと考えられる。もっと古い時代に創建されたものと思われる。
 なお、先年発見せられた「牛主印版木」には宝印、金剛寺奉唱念仏百万遍所とあり、裏面には「此重宝者坂合部ノカウ山カゲ金剛寺常住也干時天正十六年戍子十二月壱日」と刻銘、中世、坂合部郷研究の重要遺物として「五條市指定文化財」にして永久保存を講ぜられている。
 当時、旧庫裡は本堂と同年(天保6未年7月)の建築であって、屋根東棟瓦銘に刻されている。この庫裡は塾舎教育新成舎(明治7年7月)以前には寺小屋教育の場であって、平成二年四月全面改築された。
 更に境内には、金剛寺詠歌碑、補陀洛山金剛寺の碑が寄進建立されており、また150年以前に植樹された枝垂桜の古木があって地区民に親しまれている。
遺物案内

A 山陰町合祀社(旧跡)

 中央に「大屋比古神社」が鎮座されており、祭神五十猛命、またの御名大屋毘古命とある(阪合部新田坊城に祭祀された阪合部神社の同神かとも考えられる)
 大正7年7月、黒駒町に鎮座される御霊神社に合祀されている。なお、最右の「五社神社(大国主命、天照皇大神、五霊神祠、春日神祠、高野神祠が祭られ10月23日祭典)」
 中央右側の八坂神社(祭神、素戔鳴命、慶応元年6月合祀)
 中央左側の宝木神社(宝木大明神、慶応3年11月15日合祀され、毎年12月亥ノ子の日祭典)
 近年は12月第1日曜日町民集合して祭典を行う、旧宝木神社は当社の北方300メートル、中町と境界にある谷川への細路に添った椿の古木の下にあったのを遷座した。尚、一番左側に巌島神社(市杵島姫命)春日造りの素木な神社が合祀されている。

B 山陰町墓地(伝承)

 山陰町205番地、北向きの小高い岡にある。もとは坂合部郷墓であって、その昔、弘法大師が高野山と京都東寺との間を往復された途次、大和の国の一郡毎に七墓所を特に加持祈祷されたといい、この墓はその一つであって、悪獣に犯されることなく「いがき」「もんどり」などを埋葬の時も特に設けない習慣があると伝えられている。
 この墓地からは、古い刻銘のある五輪塔、一石五輪塔が多数出土されており、金剛寺東北約50メートルの処にある旧金剛寺境城跡にある。当寺の旧墓地の一石五輪塔群とともに昭和61年に大整理され祭られており、近年五條市指定文化財として永久保存を講ぜられている。また、この旧金剛寺旧墓地には、村の民生安定につくした恩徳に報謝して今も尚、地区民の崇敬している「西念法師」の霊碑があり、標石を建てて山陰町民の崇敬を集めている。

C 山陰小学校とその校舎跡(旧跡)
山陰小学校跡地
 山陰町中ノ段、旧井上氏屋敷跡の側に山陰小学校跡がある。
 明治政府の統一的政策により明治五年(1872)8月3日の学制頒布があるが、その翌々年の明治7年5月17日、民家井上氏控家を教場にあてて開校し中、黒駒、大野、山陰各村の児童教育開始されていて「新成舎」と云った。
 この時、表野(克巳舎)犬飼、転法輪寺(就教舎)(畑田、木ノ原、犬飼、上野、相谷、大深等各村)大深(寺院借用「駿々舎」大深村)等、阪合部地区内でその当時の教育が行われた。
 その後明治19年4月19日、表野小学校が山陰小学校に統合し、明治21年4月1日、山陰尋常小学校、大正元年10月、山陰尋常高等小学校となる。
 大正7年3月31日に山陰村より中村に校地移転した。当時、男性128名、女性136名、教員7名、その後阪合部尋常高等小学校より阪合部国民学校、阪合部第一小学校(阪合部第二小学校統合)して阪合部小学校となり現在御蔵橋南詰の側にある阪合部小学校の前身である。


D 施餓鬼法会について

 盆の諸法会を済ませた8月17日の夕刻、山陰町では町内各戸より相集まって金剛寺境内に於て、青年団等主催によって納涼大会が催された。その折り、住職を招いて、いとも厳かに施餓鬼法会が執り行われた。
 「施餓鬼法会」とは、供養する人のいない霊(餓鬼)に食べ物などをお供えして、その功徳によって、御先祖様の菩提(悟りの世界に行きつく事)を願い、現在私達が生かされている事に感謝する法会です。
 こうした行事は以前には、各所に於て行われたことであったが、現今では余程少くなっており残しておきたいものと考えられている。
街角
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